日々ブログ MORIMORI @宮崎県

高解像(1920pix幅)写真を交え 宮崎県観光/情報などを中心に紹介


FB・twitter フォロー / Youtubeチャンネル登録お願いします(^^)


最新20記事リスト表示
【当サイト内検索・画像検索含む】

山之口 弥五郎どん 明治初めの神仏混淆〜昭和58年にかけ、白い面を使っていた

Posted morimori / 2024.11.17 Sunday / 08:49


山之口 弥五郎どん祭り
山之口 弥五郎どん祭り

今朝(2024年11月17日)の➡ 宮崎日日新聞「くろしお」欄は、都城市山之口に伝わる「弥五郎どん祭り」についての話題でした・・
(弥五郎どん祭りは毎年、11月3日(文化の日)に行われています。)
同紙より引用
 南九州に伝わる「弥五郎どん祭り」は不思議だ。古代に朝廷と戦い命を落とした隼人を慰霊する放生会(ほうじょうえ)が発祥とされるが、主人公の正体は不詳。祭り当日訪れた都城市山之口町でも弥五郎は謎多き人だった。・・・
 **中略**
・・・主人公のはずの弥五郎は先導役。神仏混淆の信仰の中で、隼人が従神に変容したのだろうか 同町の弥五郎は約100年間�猜命諭蹐砲覆辰寝椎柔�も。
江戸時代に使われた赤色の鬼面が、明治時代初期から白色の翁面に一新された。尊皇思想にのっとり、朝廷と敵対した隼人とは別の人物像を創出したとの見方がある。1983(昭和58)年、保存会が古文献を参考にしてかつての赤色に戻した言い伝えが事実ならば、弥五郎は地方社会が中央組織に組み込まれていった歴史の象徴。その意味で祭りは悲哀を帯びている。一方、姿を変えながらも引き賂がれてきたことを考えれば子孫たちが隼人に抱く思慕の念を伝える、愛の祭礼ともいえるだろう。



弥五郎どん(やごろうどん)は隼人族の首長

巨人信仰や放生会と相まって「弥五郎どん祭り」となり、大隅、日向地方の巨人伝説信仰として後世に生き続けている。

昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。
昔からここに住んでいた人々が隼人(はやと)族です。

 奈良時代のはじめ(約1300年前頃)、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隈の国を分置したのです。

 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚によって支配される事は大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなると思い、反抗したのです。

 養老4年(720年)、大隈、日向の隼人らは中央から派遣された初代大隈国守の殺害して叛乱を起しました。(隼人の乱と呼ばれている。)
隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人の城は次々に落ちて大変いたましいものとなりました。

資料
画像:弥五郎どんの館 展示物より
720年の隼人の乱の時、隼人族の最後の拠点となったとされる
鹿児島県国分市(推定)の比売(ひめ)城。

隼人の首領、弥五郎をはじめ犠牲なった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会(ほうじょうえ)を行わせました。
放生会で隼人俗の首領「弥五郎どん」の大きな人形とつくり、その霊を慰めるようになったのです。
(関連ページ 奮戦した隼人が祀られる➡ 隼人塚)
神仏習合の八幡の名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。

➡ 弥五郎どん祭りのWebPageもご覧ください。

山之口 弥五郎どん祭り
平成15年(2003年)~使用中の弥五郎どんの面
彫刻:高千穂町工藤面師



平成元年(1989)に「日向の弥五郎人形行事」として国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」指定を受け 宮崎県無形民俗文化財に指定されたのは、1990年(平成2年)のことでした。



三国名勝図絵(的野八幡祭式之図)
三国名勝図絵(的野八幡祭式之図)


資料カラー
三国名勝図絵を着色したものと思われる
「弥五郎どんの館」展示物の一部を抜粋


第六章 南九州の弥五郎人形 行事と伝説・伝承等(鹿児島県曽於市)より一部引用

弥五郎人形の朱面
『三国名勝図会』に「大人弥五郎と呼で、朱面を被ふり」、『名勝志御糺方ニ付取調帳』にも「弥五郎長壱丈弐尺余、右は赤塗大面を付、梅染広袖帷子着」、『古今山之口記録?元』に「弥五郎殿支度之事 一赤大面 一布大帷子梅染広袖」としている。日南市田ノ上八幡神社の弥五郎人形も朱面を着けている。
朱面の理由を『日向国史』では次のように述べている。「今も古墳墓の側より往往にして発見せらるる埴輪土偶の中には、朱丹を頬に加えて暈扶(くまどり)すること恰も頬紅を施したが如きあり。よりて人或は我が日本民族の古へに亦此の俗ありしを云為すものあれど然らず。此の埴輪土偶は蓋しもと貴紳の近習の態を模とたるものにして、隼人多く出てて之に役せられたりものなれば、埴輪土偶の面に朱丹を加えるものは、蓋し其の墓の主たる貴紳の従者たりし隼人の風を表はしたりしと解すべきなり」このように朱面は貴紳の従者だった隼人を表したものと解すべきと断定している。

弥五郎どん祭り保存会は弥五郎の面を四面保有している。

額から頬にかけて割れ補修してある赤面、これは江戸時代から明治初期まで使用された。

昭和57年(1982年)地元の黒木俊美氏が彫刻した赤面、これはやや小振りで重く平成14年(2002年)まで使用された。
弥五郎どん館の正面中央、弥五郎どん人形に着けてある。

平成15年(2003年)館のオープンに合せ高千穂町工藤面師に依頼して作った赤面で、サイズを少し大きくし桐材で彫った。現在使用。

展示場に白面の弥五郎面がある。明治初期の廃仏毀釈の頃から昭和57(1982)年まで使用、しかし、古文書に赤面と記述してあることから、白面着用を止めることにし黒木俊美氏に彫刻を依頼した。

白面にしたことについての記録はないが、廃仏毀釈に伴って「朱面を白面に替えたのは、的野正八幡宮を圓野神社に改号した平田篤胤派の国学を信奉していた神官たちによるものと思われる」としており、この廃仏毀釈のとき江戸時代に使用していた赤面を割った(補修)と推測する。
(『日向の弥五郎人形行事調査報告書』)

弥五郎どん「赤面」
「弥五郎どんの館」展示物
明治以前に使われていた「赤面」縦55.5cm 横42.5cm
廃仏毀釈で壊され捨てられていたのものを、昭和43年発見修復。

➡ 的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。

弥五郎どん「白面」
「弥五郎どんの館」展示物
明治はじめ廃仏毀釈の頃から昭和57(1982)年まで使用された「白面」
赤面と異なり「翁」の様相をしている


弥五郎どん
「弥五郎どんの館」展示物
昭和57年(1982)~平成14年(2002)使用
(彫刻:黒木俊美氏)



山之口 弥五郎どん祭り 解説ビデオ (平成30年9月)/ 山之口地区まちづくり協議会


企画 山之口弥五郎どん祭り保存会(2018)
制作 フジビジョン

(以下の動画が枠内で見られない場合、Youtubeリンク先でご覧ください。


下記2枚は、上記ビデオよりキャプチャしたものです。
江戸時代の赤面ですが、廃仏毀釈で壊され捨てられていたのものが、昭和43年に見つかったようで、面を修理の上。昭和43年に限定で披露された時の様子のようです。

弥五郎どん祭り(昭和43年)
弥五郎どん祭り(昭和43年)
山之口 弥五郎どん祭り 解説ビデオ (平成30年9月)
山之口地区まちづくり協議会より


こちらは昭和50年頃の弥五郎どん「白面」の様子。
弥五郎どんまつり(昭和50年頃)
弥五郎どん祭り(昭和50年頃)
山之口 弥五郎どん祭り 解説ビデオ (平成30年9月)
山之口地区まちづくり協議会より


余談ですが・・・
山之口町、飫肥共に、弥五郎どんは赤い面といったイメージがあるので、昔、「弥五郎どんの館」で白面の展示物を見たことをすっかり忘れておりました。
鹿児島県の➡ 曽於市 岩川八幡神社に伝わる「弥五郎どん」は白い顔ですね。

先日、山之口弥五郎どん祭りには、小川直之氏(國學院大學名誉教授・大学院客員教授)もいらしていたようで、ご自身のフェイスブックで紹介されておりました。
➡ 小川直之氏フェイスブック
小川直之氏は みやざきの神楽魅力発信委員会の委員長として、神楽のユネスコ無形文化遺産登録に向けた取り組みなどにご尽力いただいており「みやざき大使」も委嘱されています。


− 山之口 弥五郎どん 明治初めの神仏混淆〜昭和58年にかけ、白い面を使っていた −

Comments

Comment Form




日本のひなた宮崎県
PAGE TOP