日向市 美々津 (みみつ) 重要伝統的建造物群保存地区
Posted morimori / 2018.05.11 Friday / 23:49
以前、美々津重要伝統的建造物群保存地区を訪ねた時の写真。
雰囲気あってとても良い景観なのですが・・・
毎回思うのは・・
電柱と電線なかったら良いのになぁー
飫肥(重要伝統的建造物群保存地区)にように地下埋設出来ればどんなにすっきりすることか。
どう活用するかなどの位置づけ、対比効果などあり、今まで行わなかったといううことは、これから先もまず無理なのでしょう。
素人の考えですが例えば、灰色のコンクリの電柱・柱上変圧器をこげ茶色に塗装するだけなら低予算で実現できそうな気もしたり・・。
街を歩いていて気付いた点としては・・
駐車禁止の看板はあれど、駐車場の案内は見当たらず・・
この辺りも、検討した方が良い気もした。
美々津重要伝統的建造物群保存地区
日向市美々津町字上町、中町、下町、上別府の一部。選定 昭和61年12月8日 面積 7.2hr
美々津の概要
美々津は古い歴史を持つ港町で、中世には集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
保存地区に指定された上町、中町、下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当り、江戸時代から明治時代の平入、妻入建物が数多く残されている。
また港から南に延びる3本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史景観を構成する重要な要素になっている。(日向市教育委員会)現地案内版より
美々津の歴史
日向市 美々津は古くから海の交易の拠点として歴史を刻み、町の背後にある遺跡からは、畿内、瀬戸内様式の弥生土器が出土しています。
このことから、美々津が相当古い時代から該地との交流があったということを裏付けています。
美々津が、港町として成立するのは江戸時代初期の元禄の頃(1688〜1703)からで、当時は高鍋藩領に属し、藩主秋月氏の支配をうけていました。
高鍋藩は3万石高の外様大名で、美々津は城付地に属し、城下に所在する蚊□浦と共に藩の重要な港町となっていました。
特に藩主の参勤交代時には御出船、御入船の港に指定されており、いち早く秋月氏の屋敷が建てられていました。さらに、港近くには津番所や藩蔵も建てられ対岸の幸脇地区や上流の余瀬地区にも番所が置かれ、城下から代官や蔵役、番人などが派遣されていました。
美々津を経済の面から支えていたのは、千石船を所有する廻船業者たらで、かれらは、備後屋、明石屋、播磨屋、泉屋などと言った瀬戸内や畿内の地名を屋号とし、耳川上流の入郷地区で生産された材木や木炭などを大阪方面に向け出荷していました。
その帰路の際、関西地方の特産品や美術工芸品を多く持ら帰り、地域文化の担い手としての−面も有していました。
かれらの活躍がやがて「美々津干軒」と言われるほどの繁栄をもたらすこととなり、明治から大正時代にかけて最盛期を迎えることとなりました。
しかし、潮や風の影響を受けやすい帆船を使った古い航海法に頼りきっていたことや経営そのものが江戸時代の旧態から脱却しきれていなかったこともあり、大正12年の国鉄日豊本線開通を契機に廻船業は衰退していくこととなりました。
主幹産業を失った美々津は、近郊の商業地域としての命脈は保ってきましたが、高度成長期における諸産業の飛躍等に伴い、現在では小さな港町となっています。(日向市観光協会発行リーフレットより)
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