美郷町「師走まつり」今年は集客せず関係者だけで。迎え火・夜神楽等は無し。
Posted morimori / 2020.12.17 Thursday / 07:35
師走祭り 迎え火(一の鳥居)
美郷町南郷を中心に行われる「師走祭り」について、先月下旬 美郷町より 令和2年度の師走祭りは、 コロナ禍の影響を考慮して規模を縮小して執り行い、メインイベントの迎え火や夜神楽等は行わず、1月23日(土)・24日(日)二日間とする事が発表されておりましたが、16日、詳細が発表されたようで、宮崎日日新聞に掲載されておりましたので引用(転載)します。
美郷町「師走祭り」迎え火行わず
美郷町南郷の百済王族亡命伝説に由来する「師走祭り」について美郷町は16日、メインイベントの迎え火を行わず、関係者のみの神事を中心に行うと発表した。
新型コロナウイルスの感染拡大を考慮して集客はせず、日程を1日短縮し、来年(2021年)1月23、24日(3月13,14日へ変更)に行う。
(【 追記 】県独自の緊急事態宣言を受け、師走祭りの日程変更が決まったようなので、修正を加えました。)日程の変更で、当初予定通り、迎え火や神楽は行われません。
3月13日 午前8時半に木城町・比木神社から宮司らが出発。
日向市金ケ浜でみそぎ、午後4時に美郷町南郷の神門神社に到着。
3月14日 午前10時半から同神社周辺で神事、午後2時から関係者のみ参加して顔に墨を塗るへグロ塗りを行う。
町は「コロナ禍を考慮し、集客する意図はない。伝統を絶やさないよう頑張りたい」としている。
以上 12/16 宮崎日日新聞より引用
(修正 日程更新は 1/16)
師走祭り ミニ解説
師走祭りは 西暦660年、朝鮮半島の百済が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻め滅ぼされ、663年百済再興の戦いにも破れ、多くの王族、部族は日本の畿内へと亡命した。その後、7世紀から8世紀中に日本に頻発した政治事件によって、現在の美郷町と木城町に百済の王族が亡命した、という伝説を基に構成された祭りです。百済の王族であった父親の禎嘉王(ていかおう)は現在の日向市の金ヶ浜(かねがはま)に漂着、その後、美郷町南郷区神門へ、息子の福智王(ふくちおう)は現在の高鍋町の蚊口浦(かぐちうら)に漂着、その後、木城町に住み、亡くなったのち、それぞれが神として美郷町の神門神社に、木城町の比木神社に祀られました。
師走祭りは木城町の比木神社に祭られている王子・福智王のご神体が、父・禎嘉(ていか)王を祭る美郷町の神門神社まで年に一度巡行面会に来るというもの。
この祭りがいつの時代から始められたのか、詳しいことはわかっていないようですが、江戸後期の『筑紫日記』や『高千穂採薬記』には記載されており、すでにそのころには行われていたようです。
神門神社には、王族の遺品とされる古い鏡24面があり、その中には奈良の正倉院の御物と同一のもの、東大寺の大仏台座下出土鏡と同形のものなどがある。
まつりのメインイベントは「迎え火」
比木神社の氏子18名がご神体を担いで木城町の比木神社を出発、日向市金ヶ浜で禊の後、東郷町中水流の伊佐賀神社で出迎えの神門神社の一行と合流、祭典の後、徒歩で百済の里(美郷町南郷区)に入る。父禎嘉王の墓と伝えられる塚の原古墳にて名木(なぎ)の氏子に迎えられ、祭典の後、和やかな交歓の場、直会(なおらい)が催されます。
師走まつり 迎え火
田の中に設けられた二十数基のやぐらやたき物に点火され、迎え火が燃え上がる中、神幸は父の待つ神門へと続く。
師走まつり 迎え火
師走祭り 迎え火
師走祭り 迎え火
この火の饗宴は、故事によれば王を護った火と煙の再現であると言われています。
神門神社 二の鳥居での神楽奉納
師走祭り 神門神社到着後 神楽奉納
例年の師走まつりでは、境内に御神屋を設け、土曜の 19:00頃〜夜神楽が行われます。
今回掲載した神楽の写真は。迎え火の後に鳥居のところで奉納される神楽です。
旧暦12月(師走)に執行されるので師走祭り
昭和23年(1947)ごろまでは、片道90キロの道程、9泊10日を巡幸しておりましたが、昭和23年前後より一部の行程を省略、その行程のほとんどは車を使い移動、2泊3日に短縮されております。旧暦12月、すなわち師走に執行されるので師走祭りと呼ばれております。
国選択無形民俗文化財
美郷町南郷区の神門神社と木城町比木神社のニ社合同、行政区をまたがって神幸する祭りは他に例をみないの祭りであり、民俗的にも価値のある祭りであるということで、平成3年(1991)、文化庁はこの祭りを「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択しております。− 美郷町「師走まつり」今年は集客せず関係者だけで。迎え火・夜神楽等は無し。 −