日々ブログ MORIMORI @宮崎県

高解像(1920pix幅)写真を交え 宮崎県観光/情報などを中心に紹介


FB・twitter フォロー / Youtubeチャンネル登録お願いします(^^)

最新20記事リスト表示
【当サイト内検索・画像検索含む】

白鳥神社の阿吽(あうん)の仁王像 水分神社 

Posted morimori / 2018.07.09 Monday / 23:29


えびの市 白鳥神社 表参道
えびの市鎮座 白鳥神社 表参道


えびの市鎮座、白鳥神社の表参道鳥居から続く石段のところ、左右に、仁王像が鎮座しております。

白鳥神社の阿吽(あうん)の仁王像
白鳥神社の阿吽(あうん)の仁王像


以下は、現地案内文
阿吽の仁王像の由来
当社は明治の廃仏毀釈まで白鳥権現社と称し、金剛乗院満足寺を別当寺とした神仏習合の神社でありました。
その名残として本来仏法の護法人である金剛力士像が阿吽一対以前のまま鎮座し、憤怒の形相を表して境内に魔物が進入しないよう守護しているものであります。
阿吽の二王いることから仁王と呼ばれ、隆々たる筋肉体質で力強い風貌から健康の神さまとして深く崇敬されています。
男性は阿の仁王様、女性は吽の仁王様を特に祈り、自分の悪いところがあれば仁王様のそのところを触れることにより癒えるという信仰もあります。


wikipadiaによれば
阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ 、a-hūṃ)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。

また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。

次いで、対となる物を表す用語としても使用された。特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。
口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言う。

転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。


柔らかい石で作られたものが風化したのか、廃仏毀釈の影響なのか・・一部が削れているようにも見えます。

白鳥神社の阿(あ)形の仁王像
白鳥神社の阿(あ)形の仁王像



白鳥神社の吽(うん)形の仁王像
白鳥神社の吽(うん)形仁王像



えびの市周辺では、地元、明石酒造さんの焼酎「名月」が、奉納されてることが多いようで、良く見かけます。

明石酒造さんの社是は「心を酔わす」とか、なかなかいい社是ですね。



白鳥神社末社 水分神社 と「奈良東大寺 大仏殿 虹梁材 赤松跡」


白鳥神社末社 水分神社


白鳥神社末社 水分神社

御祭神 弟橘姫命(主御祭である日本武尊の妃)
「古事記」では弟橘比売命と記す。

御神徳 祈雨 止雨 子宝安産身体健康病気平癒

 霧島の山々は文字どおり霧が深く、雨が多いことから水神、龍神の深い信仰があり、当社本殿にも龍の巻柱が施されている。白鳥山の水脈に鎮座している当社境内の中でも最も湧水豊かな水源地であるここに水配りを司る「水分神社」が創建されている。この水分神社は析雨、止雨の霊験あらたかであり、さらに水が命の根源であることから身休健康の神として、「みくまり」が「みごもり」と転北して子守り、子宝の神としても厚い信仰がある。

記紀の中に「夫の皇子(日本武尊)が東征で海を渡った際に海が荒れ狂い先に進むことができなくなった。その時、弟橘媛が皇子を御救いになるために入水したことにより海神 の怒りを解かれ、波が穏やかになった。」史実を伝えている。
このように自らの命を捧げることにより皇子を守り支え、海神をお鎮めされた霊験の待ち主であり、水の縁が深い御 神徳のため、御祭神としてお祀りされている。
弟橘媛命は、生前と同様に主祭神日本武尊をお祀りする本社を守護するためにもこの水分神社に御鎮座されている。
/ 現地案内板より



「奈良東大寺 大仏殿 虹梁材 赤松跡地記念碑」

奈良県の大仏殿建設のため、白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。1本はこの場所、もう1本は白鳥神社本殿のそばの白鳥夫婦杉の近くにあった赤松1本でした。 

 東大寺大仏殿の大屋根80万6000貫(3020トン)を支えている大虹梁は、元禄16年(1703年)この白鳥神社境内より伐出された2本の赤松である。
 いずれも樹齢は、2000年を越えるものであった。 1本目は、長さ13間、元口4尺3寸、末口3尺3寸7分5厘、重さ6183貫、樵夫(きこり)90人の手により4日間で伐出された。 2本目は、長さ13間、元口4尺1寸、末口3尺7分5厘、重さ5435貫余。 100人の人出が、3日間費やされた。 代金は、1本2000両。 山出しの際は、傷がつかないよう両端に金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る25里を1日860人の人夫と牛40頭の合力によって運び出された。
到着するまでには115日の歳月を要し、その間には命を失うもの、怪我したものは数しれなかったらしい。
国分新川口からは、千石船に積み替えられ、鹿児島湾、日向細島港、さらに豊予海峡の急瀬を乗りこえ、瀬戸内海に入り、兵庫港に着き、大阪伝法川口を経て、また淀川をのぼり木津川から奈良坂を越えて、ようやく無事に大仏殿に到着した。延々850里に及ぶ大運搬であった。 
宝永6年(1709年)東大寺大仏殿の落成供養も盛大に行われたが、白鳥巨松は、後の大改修を経ながらも大虹梁として今なお東大寺大仏殿を支え続けている。 
/ えびの市教育委員会


このあたりの大仏殿の事が詳しく書かれている外部参考リンク紹介

あの、、奈良の東大寺大仏殿を支えているのは、えびの白鳥で切り出された赤松なのです。
宮崎県民の方は、是非知っておきたい事です。
下記リンク先を、ご覧ください。


 江戸時代の大仏復興と公慶上人(後編)



最後に、秋の紅葉頃撮った写真を・・

白鳥神社

白鳥神社の紅葉



当サイト内 白鳥神社関連ページ
 白鳥神社

  


− 白鳥神社の阿吽(あうん)の仁王像 水分神社  −
日本のひなた宮崎県
PAGE TOP