国指定史跡 宗麟原供養塔 川南町
Posted morimori / 2021.03.31 Wednesday / 20:59
宗麟原(川南町)に咲く桜
宗麟原供養塔
私は、美郷町・椎葉村・諸塚村方面に向かう際には、宮崎ICから高鍋ICまで東九州自動車道を使い、その後、広域農道(尾鈴サンロード)を走り耳川を超えたところより県道51号を使い東郷町へ抜けます。この際、木城町・川南町境付近で「宗麟原供養塔」の案内板を目にしてまして・・いつか訪ねたいと思っておりましたが、先日ようやく訪ねました。宗麟原供養塔は高城城主 山田新介有信が建立
前回書いた「高城城址」の記事で、島津氏と、豊後の大友氏の戦いが木城町高城川原(小丸川)で行われ大伴軍が敗退したことを書きました。島津軍は逃げる大友軍を美々津の耳川まで追撃し、この間の草原は血に染められたと伝えられている。
戦死者の数は、大友軍4千、島津軍3千といわれ、その死者を葬ったのがこの宗麟原供養塔の後にある円塚との事です。
宗麟原供養塔は、7回忌にあたる天正13年に島津方の高城城主山田新介有信が、敵味方の区別なく戦死者の霊を慰めるために建てたものとのこと。
供養に来た人が打ち鳴らす鐘(写真右)の音から、「かんかん仏」の愛称で親しまれている。
供養塔の高さは約3.5m(台座を合わせた高さ)であり、一辺24mの円塚の一部を削って建立されている。(下段記載 川南町サイト参照)
「廃仏毀釈」の際、破壊破棄されたりと、名残も多いようです。詳細は wikipedia 宗麟原供養塔を参照してください。
国指定史跡 宗麟原供養塔 現地説明板より
指定年月日 昭和8年2月28日
この供養塔は、天正6年11月に行われた豊後の大友氏(宗麟)と薩摩の島津氏(義久)との合戦(通称 高城之戦)の戦没者を供養した塔である。 合戦の勝利後、島津義久は、戦死者を敵味方の区別なく手厚く弔うよう高城城主 山田新介有信に命じ、さらに天正12年、合戦の7回忌に当たって大施餓鬼(せがき)を行うよう命じた。 供養塔の完成は銘によると天正13年2月である。
塔の形式は六地蔵塔で竿石には
千時 天正13年 大施主
謹奉訓誦大乗妙典一千部為戦亡各霊
二月彼岸日 源有信山田新介
本来無東西 何処有南北(本来東西なし、何処にか南北有らんや)
迷故三界城 悟故十方空(迷うが故に三界は城、悟るが故に十方空) 下段参照 *
諸行無常 是生滅法
生滅々己 寂滅為楽 とある。
また、数百メートル南方には、大友方の陣地「松山之陣」がある。この陣地は、高城を攻めるための城、いわゆる付城で、戦いのためだけに使う城のため、合戦時の城の構えをよく残していると考えられている。
城の最も重要な部分である主郭部は三つの郭がそれぞれ独立する南九州独特の形態である。
(現地案内板・平成9年11月12日 川南町教員委員会)
現地案内板を撮影した画像
本来無東西 何処有南北(本来東西なし、何処にか南北有らんや)
迷故三界城 悟故十方空(迷うが故に三界は城、悟るが故に十方空)
以下は、川南町サイト内 宗麟原供養塔より要約引用
「人々はこちらが東、こちらが西と言っているが、これは本来(ずっと古い時代から)あったものではなく、人間が方向を知るために、仮に定めたものに過ぎない。
東西がそうであるから、南と北も同様に、人間が仮に定めたことに過ぎず、本来あるはずはない。
しかしこのようなことに迷うから東があり西があり、南は薩摩、北は豊後として敵対するようになるのである。
悟れば南も北もなくなり、みな日本人となる。即ち十方空である。」
人間は死んでしまえば十方空、すなわち敵も味方もない世界に行く、ということである。
これは人間の生涯のあり方を示す仏教の言葉であり、このような仏典を引用して両軍の各霊を弔った山田新介有信の優れた人間性を偲んでやまないものがある。
(※参考:宗麟原供養塔四百年祭奉賛会『記念誌 十方空』)
宗麟原供養塔の地図 ➡ GoogleMap
耳川の戦い
耳川の戦いは、天正6年(1578年)、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町)を主戦場とした合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。wikipadia ➡ 耳川の戦い
この一年前、天正5年(1577年)12月10日 島津氏の謀略による野尻城主 福永祐友の謀反をきっかけに島津氏への寝返りが発生したため、日向国伊東氏の伊東義祐・伊東祐兵らが佐土原城・都於郡(とのこおり)城から、大友氏のもとに米良山から高千穂経由で豊後国に一時的に退去。
おそらくその中に都於郡生まれのあの「伊東マンショ」もいたのですよね。
キリシタン大名 大伴宗麟は歴史書や戦国時代のテレビ番組などでよく目にしてましたが、いつも通っていたあの付近が、「九州の関ケ原」とまで言われる歴史上の一舞台であった事を知り、感慨深いものがありました。
余談ですが・・NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014)で大伴宗麟を演じたのは上條恒彦さんでした。
大分県では、NHK大河ドラマ「大友宗麟」誘致推進協議会を立ち上げ、誘致しているようです。
公式サイトの中より関連内容があったので最後に引用しておきます。
NHK大河ドラマ「大友宗麟」誘致推進協議会 大友宗麟、主な足跡とその後(PDF)より一部引用
宣教師の説く世界こそ自分の理想国家だと信じた宗麟は、しがらみのある豊後国内での建設をあきらめ、日向・延岡にその地を求めた。折よく、縁戚である日向の伊東三位入道義祐が島津に追われ亡命していた。伊東の旧地を奪回するという名目を立て延岡に侵攻したのだ。真意はもちろんキリシタン国家建設であった。
惨敗した日向遠征
1578年11月、総勢43,000の軍勢で日向に侵攻した。「平和のための戦争は必要悪」というのは現在の世界でも"聖戦"という理屈で存在する。宗麟はキリスト教による理想国家建設を夢見て遠征軍を起こしたのだが惨敗を喫した。原因は、ほとんどの重臣の反対を押し切り、腹心・田原紹忍一人のみの賛同で、内部がバラバラのまま行動したことである。加えて前線の指揮を重臣たちから総スカンを喰っていた彼に全権委任したのがその主原因である。
参考
宮崎県下の国指定史跡
宮崎県では、特別史跡1件を含む計23件が指定されている。特別史跡
- 西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)〔西都市〕1934年(昭和9年)5月1日
史跡
- 南方古墳群(みなみかたこふんぐん)〔延岡市〕1943年(昭和18年)9月8日
- 川南古墳群(かわみなみこふんぐん)〔児湯郡川南町〕1961年(昭和36年)2月25日
- 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)〔児湯郡川南町〕1933年(昭和8年)2月28日
- 持田古墳群(もちだこふんぐん)〔児湯郡高鍋町〕1961年(昭和36年)2月25日
- 新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)〔児湯郡新富町・西都市〕1944年(昭和19年)11月13日
- 常心塚古墳(じょうしんづかこふん)〔西都市〕1980年(昭和55年)3月24日
- 千畑古墳(ちばたけこふん)〔西都市〕1934年(昭和9年)5月1日
- 茶臼原古墳群(ちゃうすばるこふんぐん)〔西都市〕1973年(昭和48年)8月18日
- 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)〔西都市〕2000年(平成12年)9月6日
- 日向国府跡(ひゅうがこくふあと)〔西都市〕2005年(平成17年)7月14日
- 日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)〔西都市〕2011年(平成23年)9月21日
- 松本塚古墳(まつもとづかこふん)〔西都市〕1944年(昭和19年)3月7日
- 本庄古墳群(ほんじょうこふんぐん)〔東諸県郡国富町〕1934年(昭和9年)8月9日
- 生目古墳群(いきめこふんぐん)〔宮崎市〕1943年(昭和18年)9月8日
- 佐土原城跡(さどわらじょうあと)〔宮崎市〕2004年(平成16年)9月30日
- 蓮ヶ池横穴群(はすがいけよこあなぐん)〔宮崎市〕1971年(昭和46年)7月17日
- 穆佐城跡(むかさじょうあと)〔宮崎市〕2002年(平成14年)3月19日
- 本野原遺跡(もとのばるいせき)〔宮崎市〕2004年(平成16年)9月30日
- 安井息軒旧宅(やすいそくけんきゅうたく)〔宮崎市〕1979年(昭和54年)5月22日
- 今町一里塚(いままちいちりづか)〔都城市〕1935年(昭和10年)12月24日
- 大島畠田遺跡(おおしまはたけだいせき)〔都城市〕2002年(平成14年)3月19日
- 中ノ尾供養碑(なかのおくようひ)〔日南市〕1934年(昭和9年)8月9日
古墳を除くとそれ程多くは無いようです。
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