散っても見頃2!西都市 国分寺イチョウ 日向国分寺の跡 木喰五智館
Posted morimori / 2024.12.15 Sunday / 23:40
日向国分寺イチョウ
12月15日、中之又神楽(夜神楽)の帰り道、西都市国分寺イチョウを見て来ました。イチョウの葉はほぼ散り、一面黄色い絨毯になっておりました。
西都市 巨樹・巨木100選
西都市大字三宅
推定樹齢600年
幹周 8m 樹高20m
由来・伝承
日向国分寺跡である当地には、木喰五智館が建てられています。
中には 釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五智如来像が安置されています。
また、木喰いはこの樹に龕(がん)を造り小さな像を祀って、その空洞の穴が樹皮でふさがれたとき、再びこの世に現れると告げたちおいう伝説があります。
平成26年1月 西都市教育委員会
日向国分寺イチョウ
日向国分寺イチョウ
日向国分寺イチョウ
日向国分寺の跡
日向国分寺の跡 現地説明板
日向国分寺跡は天平13年(741)の聖武天皇の詔により全国に造営された国分寺の一つで、一ツ瀬川右岸の中間台地上に位置する古代寺院跡である。
これまでに昭和23年の日向考古調査団をはじめ、県教育委員会や西都市教育委員会が調査を行っている。平成7年から実施された発掘調査の結果、講堂や中門、西門、回廊等が確認され、伽藍中枢部の規模が東西80m、南北77m以上であることが明らかとなった。さらにその東側では、寺院に関連する掘立柱の建物群や寺域の区画施設があることも明らかとなり、寺域は東西150m、南北190mと想定される。
出土遺物には、多量の瓦類や畿内系土師器や墨書土器があり、その分析から8世紀後半に造営され、9世紀末には衰退したものと考えられる。
伽藍中枢部及び寺域範囲がほぼ明らかとなり、特に講堂などの遺構の残存状況は良好である。出土した瓦から、大宰府や九州地方の他の国分寺との関係が想定され、国分寺造営の実態や古代日向国の政治情勢を示す上でも重要である。(みやざき文化財情報サイトより)
日向国分寺とイチョウ
日向国分寺跡
木喰上人造仏(五躯)
宮崎県指定 有形文化財指定年月日 H8.11.1
木喰は、江戸中期に全国を行脚した廻国僧であり、作物聖として知られている。天明8年(1788)日向の地に入り、以後10年間、日向国分寺を中心にして日向各地を巡鍚(じゅんしゃく)し、木彫仏を残した。
本仏像は、五智如来とも呼ばれ、焼失した国分寺再建の中で制作されたものである。カヤ材を用いた寄木造りの5体の仏像(木造大日如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来坐像、木造薬師如来坐像、木造宝生如来坐像)は、木喰の制作した仏像の中でも3m前後と最大級であり、点数のまとまりとしても特筆されるものである。
木喰仏は、代々地元の人々によって大切に保護され、日向に滞在した歴史的痕跡とともに、庶民信仰の姿を伝える歴史資料として貴重である。
木喰五智館(もくじきごちかん)
木喰五智館(もくじきごちかん)
木喰五智館(もくじきごちかん)
日向国分寺再建のため、三宅村に滞在した木喰上人は楠の大木を用材として五智如来坐像を刻みました。
この5体の如来坐像は中央に本尊の 大日如来、向かってその右側に阿弥陀如来、釈迦如来、一方左側には薬師如来 宝生如来と並んでいます。
宝生如来坐像の背面には「クハン世イ四(寛政四)予ノ八月十五日、作、木喰」の刻印が残されています。
木喰五智館(もくじきごちかん)
木喰五智館(もくじきごちかん)内部の像の写真については過去のに作成したWebPageの原画より作成したもので、今回猿詠したものではありません。
➡ 日向国分寺跡と木喰五智館(もくじきごちかん)
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