村所八幡神社大祭 村所神楽 Part4 献饌(けんせん)
Posted morimori / 2016.12.20 Tuesday / 23:38
「村所神楽」のPart4 今回は、「神饌」をお供えする「献撰(けんせん) 」のご紹介です。
2番 献撰(けんせん)
神前と神屋に供え物が運ばれる神事で、極めて荘重な音楽にのせて、厳粛に古式豊かに取り行う。平安の昔、宮中で行われたそのままの形を保つ。

〜 村所神楽 二番 献撰(けんせん) 〜

〜 村所神楽 二番 献撰(けんせん) 〜
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Posted morimori / 2016.12.20 Tuesday / 23:38


Posted morimori / 2016.12.19 Monday / 23:08



Posted morimori / 2016.12.18 Sunday / 23:01

『米良神楽』
米良神楽は大和神楽の流れをくむものである。
南北朝時代、肥後の菊池氏が九州における唯一の朝廷方の豪族として、勤王の旗印を上げていた時に、征西将軍の宮懐良親王は幼少にして大命を拝して肥後の地に御下りになった。時折親王のお心を慰め申しあげる為に、当時、京の都や宮中において舞われた舞を、随従の公爵・武将によって舞われた舞が、今日の米良神楽の流れである。
後、肥後の菊池氏は菊池の本城落城の末、征西将軍の官を奉じて米良山中に入山したと伝えられる。世は下り、文明三年(一四七一)懐良親王を祭る大王宮が建立さるるや、征西将軍の宮が生前好きであつた舞を神前に奉納した。これが、米良
神楽の始まりである。
米良神楽の組み立ては岩戸神楽になぞらえて、最後に岩戸開き三番を加えた。しかし、全体の神楽の構成は米良神楽特のものである。
その一つは、前半は 「神神楽」 と称し、優雅・荘重な雰囲気であること。後半は、勇壮なものに重点が置かれ、「民神楽」と称して 「神楽ばやし」の歌が参詣人によって歌うことが出来る。
その二は、郷土の祖先の霊を祭る内容のもので組み立てられている。
その三は、神楽奉納者は一定の修業を経た 「社人」と称する人によって舞われることである。
その舞い振りは、大陸文化の影響を受けて新しく生まれた日本芸術文化の粋で作られていることにある。したがつて、舞い振りは昔の唐舞い・朝鮮舞いで構成されているのが、米良神楽の舞い振りである。


ところで、大円が住職となった新立寺は村所八幡神社の別当寺であった。延享3年(1746)の「米良山覚帳」によると新立寺には6人の山伏がいた。
村所八幡は南北朝時代、征西将軍懐良親王の子良宗を奉じて米良山に潜居した菊池氏(後に米良氏)が御川神社を創建、天正2年(1574)米良弥太郎重鑑が崇敬した豊前宇佐宮の分霊を勧請して神社を再建した。これが村所八幡で宇佐八幡とも称する。新立寺の住職は村所八幡宮の社僧でもあった。
現在も村所八幡神社では12月に夜神楽が奉納されるが、深夜12時頃に奉納される「八幡様(重鑑)」の舞は歴代宮司が勤め、この舞が始まると人々は被り物やマフラ−などを取って「八幡様」を拝み賽銭をあげる。33番演目中の最も厳粛な舞、これに使用される面は大円が彫刻したもので現在も着用される。八幡宮の社僧であった大円も自分で彫った面を着けこの舞を舞ったのである。