都井岬 御崎馬・ヒオウギ・彼岸花・チョウケンボウ|幸島のボス猿交代?
Posted morimori / 2017.09.30 Saturday / 23:09
日南市 坂元棚田での「彼岸花」撮影後、都井岬でも「彼岸花」が見頃のようでしたので、久々、都井岬まで足を延ばしました。
日南方面から下る、海岸ぞいの道は、南郷の先で、路肩決壊の恐れがある為、6月22日より長期間通行止め中ですので、内陸部を通る道を通り、幸島近くへ出て、それから南下しました。(※下部に規制地図記載)
いつもなら、小松ヶ丘の上に 馬がいるのですが、今回は全く見かけません。
都井岬灯台や、御崎神社など周辺まで探しましたが、結局、道沿いで、5〜6頭を見かけただけでした。
先日、馬を人間の垣根で柵の中へ追い込み、害虫駆除のための薬を与える等の作業を行う伝統行事「馬追い」が行われたようですが、それが要因で、一時的に出てこなくなっているのかな?とか考えたりもしましたが・・
この写真の馬など見てると、全然平気そうだし、なぜだろうと思ったりも・・。
今の時期、丘の上よりもっと良い餌場があるのかな?
夢は、南の果てにある。
太陽と海と野生動物。天然づくし、くしまし。
太陽と海と野生動物。天然づくし、くしまし。
〜 12mm ISO100 F7.1 1/640 (α7RII / FE12-24mmF4G) 〜
〜 24mm ISO100 F7.1 1/1000 (α7RII / FE24-70mmF2.8GM) 〜
御崎馬の由来(パンフレットより)
御崎馬は長野県の木曽馬や北海道の道産子などとともに日本在来馬と言われ、今から2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて中国大陸から導入された馬がその起源とされています。
古くから馬の生産は盛んに行われ、大化の改新でも馬の生産や管理に関する政策は重要な柱の1つであり、日本各地に多数の官営の牧場が作られました。特に鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果し、また牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られました。
高鍋藩秋月家は、江戸時代の元禄10年(1697年)に日本書紀の中の歌にも詠まれた日向の駒を集めて、今日の串間市を中心に7カ所の藩営牧場を作り軍馬や農耕馬の生産に励みました。この7牧の1つ都井村御崎牧が今日の御崎牧場です。以来この牧場で生産される馬は御崎馬(岬馬)と呼ばれるようになりました。
御崎馬は牧場開設当初から、ほとんど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治7年、都井4組及び宮の浦を一団とする御崎牧組合の共有牧場となった後も、その粗放な飼い方が続けられてきました。そのため御崎馬の風貌や習性
あるいは体形や資質は野生状態を思わせます。これが「都井の野生馬」と言われる所以でしょう。
そしてそれ故に昭和28年には「自然における日本に特有の家畜」として国の天然記念物に指定されました。