■《関連ニュース追記》平成29年1月28日 記
「米良山の神楽」国選択文化財に
国の文化審議会は、平成29年1月27日、
尾八重神楽(西都市)、
中之又神楽(木城町)、
村所神楽、越野尾神楽、小川神楽(西米良村)五つの神楽を「
米良山の神楽(めらやまのかぐら)」として「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」(選択無形文化財)に選択するよう答申したとのことです。
当サイト内、ブログ記事
➡ 「米良山の神楽」、国の選択無形民俗文化財に/ 追記おわり
米良神楽
以下の説明での『米良神楽』は、米良地域に伝わる神楽、つまり、西米良神楽(村所神楽、小川神楽、越野尾神楽など)、
銀鏡神楽(西都市)、打越神楽(西都市)、湯之片神楽(西都市)、
尾八重神楽(西都市)、
中之又神楽(木城町)などの総称です。
〜 宮崎の神楽(山口保明著)を参考に、現状にあわせ作図 〜
※「銀鏡神楽」の国指定登録名が「米良神楽」となっておりますので、混同しないように付記しました。
『米良神楽』
米良神楽は大和神楽の流れをくむものである。
南北朝時代、肥後の菊池氏が九州における唯一の朝廷方の豪族として、勤王の旗印を上げていた時に、征西将軍の宮懐良親王は幼少にして大命を拝して肥後の地に御下りになった。時折親王のお心を慰め申しあげる為に、当時、京の都や宮中において舞われた舞を、随従の公爵・武将によって舞われた舞が、今日の米良神楽の流れである。
後、肥後の菊池氏は菊池の本城落城の末、征西将軍の官を奉じて米良山中に入山したと伝えられる。世は下り、文明三年(一四七一)懐良親王を祭る大王宮が建立さるるや、征西将軍の宮が生前好きであつた舞を神前に奉納した。これが、米良
神楽の始まりである。
米良神楽の組み立ては岩戸神楽になぞらえて、最後に岩戸開き三番を加えた。しかし、全体の神楽の構成は米良神楽特のものである。
その一つは、前半は 「神神楽」 と称し、優雅・荘重な雰囲気であること。後半は、勇壮なものに重点が置かれ、「民神楽」と称して 「神楽ばやし」の歌が参詣人によって歌うことが出来る。
その二は、郷土の祖先の霊を祭る内容のもので組み立てられている。
その三は、神楽奉納者は一定の修業を経た 「社人」と称する人によって舞われることである。
その舞い振りは、大陸文化の影響を受けて新しく生まれた日本芸術文化の粋で作られていることにある。したがつて、舞い振りは昔の唐舞い・朝鮮舞いで構成されているのが、米良神楽の舞い振りである。
説明文は、当日受付で頂いた資料より転記
西米良神楽 村所八幡神社大祭 村所神楽
9番 大王様(だいおうさま)
大王様とは征西将軍宮懐良親王を言う。米良入山の当時のお姿で神楽場にお降りになる。
〜 村所神楽 9番 大王様(だいおうさま) 〜
14番 八幡様(はちまんさま)
八幡様祭神の舞である。八幡様は応神天皇、征将軍宮懐良親王・米良重為・米良重鑑公を祭る。
但し神楽にお降りになる方は重鑑公をさして八幡様と申し上げている。
出陣の姿で舞を納めるは歴代の宮司がこれを受け持つ。
家内安全・武運長久等を祈願している。
〜 村所神楽 14番 八幡様(はちまんさま) 〜
面は西米良に没した修験僧 大円の作
みやざき風土記 No.33 3000もの仏像を残した廻国僧大円(3) / 前田博仁(宮崎民俗学会副会長)より一部引用
ところで、大円が住職となった新立寺は村所八幡神社の別当寺であった。延享3年(1746)の「米良山覚帳」によると新立寺には6人の山伏がいた。
村所八幡は南北朝時代、征西将軍懐良親王の子良宗を奉じて米良山に潜居した菊池氏(後に米良氏)が御川神社を創建、天正2年(1574)米良弥太郎重鑑が崇敬した豊前宇佐宮の分霊を勧請して神社を再建した。これが村所八幡で宇佐八幡とも称する。新立寺の住職は村所八幡宮の社僧でもあった。
現在も村所八幡神社では12月に夜神楽が奉納されるが、深夜12時頃に奉納される「八幡様(重鑑)」の舞は歴代宮司が勤め、この舞が始まると人々は被り物やマフラ−などを取って「八幡様」を拝み賽銭をあげる。33番演目中の最も厳粛な舞、これに使用される面は大円が彫刻したもので現在も着用される。八幡宮の社僧であった大円も自分で彫った面を着けこの舞を舞ったのである。