12月2日(土)、高原町にて、国指定重要無形民俗文化財 「高原の神舞」(たかはるのかんめ)の一つ「狭野神楽」(さのかぐら)が奉納されました。
写真で紹介します。
スマホでの閲覧でのアクセシビリティを考慮し、全4回に分割してご紹介します。
狭野神楽(高原の神舞)全4ページ
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狭野神楽 1回目は、高原の神舞、狭野神楽の概要説明、狭野神社での神事、そして
*「破魔下り」神楽神庭での斎場祭までの写真をご紹介。
*「浜下り」が一般的に使われているようですが、このページでは、当日の番付時間割に記載されていた「破魔下り」を使用しました。
高原町発行 国指定重要無形民俗文化財 「高原の神舞(たかはるのかんめ)」リーフレットより一部引用。
高原の神舞(かんめ)
高原町は、霧島連山の南東に位置する高千穐峰の裾野に広がる農業と畜産の町です。
高千穂峰の周囲には、平安時代に整備された「霧島六社権現」という6つの社寺がありました。その中の狭野神社・霧島東神社が高原町にあり、この2つの神社及び氏子の家には、「狭野神楽」「祓川神楽」が伝承されています。その2つの神楽を総称して「高原の神舞(かんめ)」と呼んでいます。
「神舞(かんめ)」とは、江戸時代、民家の庭先に大規模な舞庭を作り、そこで夜を徹して舞われる旧薩摩藩内の神楽を指します。
この大規模な屋外の神庭の他、真剣や長刀など武具を使用した舞いが多い事や、舞いながら神歌を歌わない事、岩戸神話を積極的に取り入れていない事などが特徴とされています。しかし今日、旧薩摩藩の神舞の多くが衰退あるいは消滅してしまいました。
そのような中、高原町の狭野神泉・祓川神楽は、古来の神楽を絶やす事なく、現在も夜を徹して様々な舞が奉納され、訪れた人々を魅了しています。
そういった価値が認められ、平成22年3月11日、「高原の神舞(かんめ)」として国重要無形民俗丈化財に指定されました。宮崎県では、高千穂・銀鏡・椎葉に続き4番目の国指定神楽となりました。
狭野神楽(さの神楽)
狭野神社の氏子の家に代々伝わっていましたが、現在は狭野地区の行事として行われています。
起源は祓川神楽と同じと思われます。最盛期の大政年間(1818〜1830)には39番もの膨大な舞があり「縄荒神(つなこうじん)」など宮崎県央部に見られ、旧薩摩藩では殆ど見られない番付を多く保有していました。 以前は旧暦9月16日に行われていょしたが、現在は12月第1土曜に行われています。 神楽の中身については、同じ丈化圏の祓川神楽との共通点が多いものの、御幣を希って舞う「小房(こふさ)」や、酒を飲みながら舞う「御酔舞(ごすいまい)」など、近隣の神楽には見られない番付も見られます。
狭野神楽は、江戸時代に多くの寄進物を受けましたが、それらの大半が今も残されています。特に神楽で使用していた面については、能面が定型化する以前、猿楽や田楽に使用されていたと思われる様式を残しており、仮面史上非常に貴書な面です。この他にも、装束や幟・陣幕・番付表などが残っています。
祓川神楽については別途WebPageを作成しておりますので、併せてご覧ください。
➡ 祓川神楽
狭野神社で神事 その後 破魔下り(19:00〜)
19時頃から狭野神社本殿で神事が執り行われる。
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